日本が去った後に 〜 台湾アイデンティティー

台湾アイデンティティーを観てきた。
日本敗戦後の「日本語世代台湾人」の戦後を個人史にスポットライトをあてて追っていく映画で、「ポレポレ東中野」で今日が初日だった。

日本統治時代そのものについての是非ではなく、失われていく「日本語世代」の戦後をひたすら追っていく。
撮影の殆どは台湾で行われているものの、映画はほとんど日本語のみで進み、海外が舞台である事を感じさせない。途中からは、これは分割統治が実行されていた場合の「日本」を舞台とした映画なのだと解釈した。実際、出演者たちは、戦前・戦中を「あのとき私は全くの日本人でした」と語る。その言葉に是非はない。でも、その「日本」はいなくなった。兄弟皆で戦場に命を捧げた対象はサヨナラしていなくなった。見捨てたと思われても仕方のない事だ。でも、その事を「運命でした」と言う。そこには、かつてあったであろう激情は無く、深い諦念と、そして激動の戦後を生き抜いてきた事への誇りを感じる。*1

国が変わる。個人のアイデンティティは国とイコールではないが、まったく別とも言い切れない。出演者たちにとって、日本は否定しようがないんだろう。今回の出演者たちにとっては日本こそが青春だった。
一方で、国民党は碌なものではなかった、と語られる。実際に白色テロにより父を殺された人も出てくる。台湾に生まれ育ちながら、統治の主体が変わる事で振り回される人々。

監督は出演者にアイデンティティを問う「あなたは何人ですか?」。答えは揺れる。でも殆どの人は「台湾人」だと答える。生きている間、人は翻弄される。でも、統治の主体に関わらず、生まれ育ったところがルーツということ、あるいは、「日本国民」を全うできなくて残った唯一のものだったのか。

監督の質問がジャカルタに住むウマル・ハルトノ(宮原永治)さんに対してだけ違う「その時が来たら、宮原さんは何人として死んでいくんでしょうか」。彼はこの問いに他の人とは違う答えをする。アイデンティティが最終的には死んだときに定まるとして、この答えは自分で勝ち取った国こそが祖国ということなんだろうか。その人が主体的に思って勝ち得たものこそがアイデンティティ。手段は武力に限るわけではないが、そうでなければ得られなかった時代。

実際のところ、かつての日本人に「戦後育ちのあなた方にはわからないでしょう」と言われるぐらいには台湾を、そして「日本」を知らなさすぎる事をわからせてくれる映画でした。

P.S.
映画に出演されていた呉正男さんを映画館の入り口でお見かけした。柔和な、それでいてしっかりとした印象の方だった。いつまでもお元気で暮らしていただきたいと思う。

*1:そういう人が出演してくれたとも言える。これは前作の台湾人生とも少し違うように思える。