ルールを使う

想定外のこと

公的文書というのは色々と決まりごとがあって、ちゃんと準拠しないと受け入れてもらえない。
学校関連の文書も同様で、PTAのような公的組織では無くても、例えば「卒業を祝う会」みたいな非公式(でも半分くらい公式)な集まりでも、配布される文書には気を使う必要がある。
例えば「こども」という言葉を、どう表記するのか?
「こども」「子ども」「子供」、どれでも良さそうだけど「そんな事は無い」と言う人がいる。典型的には"供"という漢字が字源を考えると子供の人権を否定しているから使うべきではない、という意見だ。

実際に調べてみると、色々な意見が出ていたようだが、少なくとも「子ども」表記にはあまり根拠は無さそうだ。
清野 隆、2008、「国語科教育の基礎学の構築(I) 漢字の基礎−「子ども」・「子供」の表記を基にして− (PDF)」 、『北海道教育大学紀要(教育科学編)』59巻1号、北海道教育大学.によると、一般的には「子ども」と表記される事も多いが、昭和56年度12月に出された文部省の公用文作成の配布資料である「文部省用字用例集」では書き表しの項目に「子供」とあり、更に文化庁発行「ことばシリーズ19 言葉に関する問答集9」では、以下のように記述されているという事を指摘している。

問19 「子供」か「子ども」か
・・(略)・・
 その表記としては、「子等、児等、子供、児供、小供、子ども、こども」などいろいろな形が見られたが、明治以後の国語辞典類では、ほとんど「子供」の形を採り、「小供」は誤りと注記しているものもある。その後、「子ども」の表記も生まれたが、これは、「供」に充て字の色彩が濃いからであろう。
・・(略)・・
 しかし、現在では、昭和56年の内閣告示「常用漢字表」の「供」の「とも」の訓(この訓は、昭和23年の内閣告示「当用漢字音訓表」にもあった)の項の例欄に「供、子供」と掲げられており、公用文関係などでは、やはり、「子供」の表記を採っておいてよいと思われる。
・・(略)・・

他にも、「きょうだい」とかが問題になるらしい。普通の人は、こんな事は知らないし興味もないが、突然このような「常識」を知っていて対応する事を求められ、あるいは、説明責任が生じてしまう。

このような瑣末な話に限らず細かな衝突は多い。でも、大概の事にはそれなりの「前例」や(上記の用字用例集や問答集のような)「規則」が用意してある。ちゃんと「調べれば」わかるようになっている。
実は「想定外の事」は、ほとんど無くて、ちゃんと「ルール」が用意されている。(ルールへのアクセス・コストは高いけど。。。)

目的は何処へ

その「共同体」の目的は共有されているはずだけれど、そこに至る「手段」で衝突してしまう。手段についての意見の相違は、個々人の想いの反映だから元々一致するはずもない。そのうち、目的はそっちのけで「個人の考え方」についての議論が始まってしまう。こうなると容易には妥協できない。お互いの「正義」をかけているからだ。目的は何処へ。。。

人を利用するということ

安直だが効果の高い方法は「権威」を人に付与してしまう事だ。この人は最終的な決定権を握り、次々と出てくる問題点を「解決」していく。その人が目的を見失わない限り、共同体は目的に向かって一直線に走る事が出来る。そのうち、共同体は、その人の空気を読んで尖鋭化し最適化される。
一方で新参者にとっては、空気の学習が必要になり参加コストは跳ね上がる。そして共同体の構成員がズレた感じた時に歯車が逆回転する。その人は一転して共同体の敵となり、解決は無かった事になり、その過程でまた新たな権威が生まれていく。
このやり方が使えるのは極めて短期間、かつ構成員の価値観が類似している状況だけなんだろう。

ルールを利用するということ

衝突しそうなところは最初から「明文化されたルール」にしてしまう。「ここでは、こういう決まりごとになっています」というのは、新参者にとっては従うべき規範がはっきりしていて衝突を予め防止する事が出来る。
このルールが当事者から距離があると更に良い。具体的に目の前の○○さんが決めた事には文句も言えるが、策定者が見たことも無い人だと文句の言いようもない。「お上」とかの良く分からない権威だと最高。文句を言う相手なんかわからない。むしろ、共同体の共通の敵認定して「まったく、わかってないよね」と言って結束を固めることすらできる。
ルールは、先人の知恵として共同体を導き、迷いに答えを与え、時に団結心さえ与えてくれるありがたいツールなのだ。