死せる王女のための孔雀舞[佐藤史生]

本当は作者の三回忌にあわせて4/4に何か書こうと思ったのだけど、思い入れが強すぎて高校生の頃の話など書き出したらあまりにも酷い出来となったため、止めておいた。その際にWEBで探していて見つけたのが、「死せる王女のための孔雀舞」の復刊のニュース。Amazonの商品ページも確認、まさか2012年に佐藤史生の「新刊」が読めるとは。

新書館版との比較

やはり新刊の本というのは良い。真っ白な紙面にほのかな印刷のにおい。手に取ったときに自分でも驚くくらい嬉しさがこみ上げて、読むことすらもったいない感覚。やっぱり冷静ではいられない。
内容についてはあちこちのサイトにあるようなので、外観の方を新書館版と比べてみる。判型は同じだけどデザインの違いから落ち着いた印象がある。

「一角獣にほほえみを」「マは魔法のマ」の2作品が増えている事以外にも、紙質の違いがあるのか厚さも違う。

あと、帯の方も。


佐藤史生コレクション、刊行開始」の大文字に期待がふくらむ。いや、この手の煽り文句には何度もだまされているので、眉に唾つけるけど、実現すればこんな嬉しい事はない。何せ、手元にある本は既に30年近くたっていて紙も黄ばんでおり、「やどり木」などは背中が痛んで下手するとバラけそうなのだ。

救う人

夢見る惑星の主人公もそうだけど、七生子は他人をそして自分を救う人だ。最初は自我をもてあますけど、幾ばくかの才能と自意識と周りとの関わりの結果、自分と向かい合い、受け止め、そういうかたちで立つことになる。作中の人々はもちろん、読者もその過程を追う事で救われる物語。諸井先生との別れの場面は、佐藤史生作品の中でも屈指の名場面だと思う。
正直言えば、いま読んでもかつてのような気持ちにはなれないだろうと思っていたのだが、この場面を読むと一瞬で最初に読んだときの感覚(高校生!)に戻ったような気になる。(逆に言えば、私はまだ持てあましているのかもしれない。この年でなあ。)

今回思った事とか

あらためて読んでみると、森脇真末味ブルームーンを連想した。あちらの方は双子だから、七生子とは異なる形で自立していくし、救う人になれたとは思えないが、全体的な読後感は似ている。(実際はまったく違う作品なんですけどね。これはまったく個人的な感覚です)
作者同士の交流もあったようで、文庫版のワン・ゼロ3巻には森脇真末味の解説がある。(いま読むと、そのゆったりとした関係がもう無い事に泣かせられる) ワン・ゼロのラストでは「かつての面影の無い主人公」の写真が出てきて、一つの物語の終わりを告げるが、これは、ブルームーンと同じ構成だ。二人の交流が生み出した一つの形なのかもしれない。(ちなみに、初出はたぶんワン・ゼロの方が先だと思う)

作品での接点は見られなくても、色んな人たちが佐藤史生の想い出(本書の増山法恵さんによる解説でも出てくる)を語ったりしている。今となっては、読者に出来るのは、それらのパーツを拾い集めて色々な組み合わせを楽しむ事くらいだ。「佐藤史生コレクション」が続けば、そのようなパーツも増えるだろう。本当に期待している。