護るべきもの − 石垣の祭りアンガマーの場合

連日の暑さには嫌になるけど、ガッツリと汗をかいてから冷たい水でシャワーを浴びる気持ちよさも捨てがたい今日この頃。ふと、友人から聞いた石垣の祭りの話を思い出した。

その祭りアンガマー(八重山地方全般であるようだけど)については探せば色々と見つかるけど、石垣島発 私設かってに観光協会 アンガマ隊が行くから引用。

アンガマ−は、あの世からの使者であるウシュマイ(お爺)とウミー(お婆)が子孫(ファーマー)と呼ばれる花子を連れて現世に現れ、石垣島の家々を訪問、珍問答や踊りなどで祖先の霊を供養するという八重山独特の旧盆行事だ。

石垣島発 私設かってに観光協会 アンガマ隊が行く

その起源や南方諸島あるいは中国との文化的交流の跡など、興味深いところは色々とあるのだけれど、何が面白いといって「子孫(ファーマー)と呼ばれる花子たち、なぜか、みんなマスクとサングラスで顔を隠し、なかなか怪しい行列なのです。」に勝るところは無い。伝統行事でサングラス、こんなのありなの?変じゃない?

友人からすると、こういうところに沖縄の柔軟な合理性があると言う。「元々、祭りで大事なことは何か、ということだよ。」「この祭りでは花子たちは顔を隠し誰かわからないようにすることが必要で、それは花子という踊り手の正体が何者か、という祭りの構成に関わる大事なんだ。」「そして、その根本が達成されるならば、手段について細かい事は言わないんだ。」「それって伝統を守りながらも自由だよね。」

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「北海道人」情報メールマガジン内にある【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】第12回には以下のようにある。

アンガマーの最中、唄者(うたしゃ)以外は裏声しか発してはならない。なぜならば、仮装した青年たちは「精霊」であって、「この世の者ではない」からである。サングラスは現代風であるが、昔は「ミーカガン」と呼ばれる木製の水中メガネを装着して踊っていたらしい。

「北海道人」情報メールマガジンバックナンバー第82回:北海道人

つまり、生者が花子という精霊を演じるにあたって「誰だかわからなくすることでこの世の者ではない事を表現」し、「その手段は時代によって適切なものに変わっていく」という祭りなわけだ。

前者については、そもそも伝統的な祭りでは、神話や伝説化した偉人(これも一種の神ですね)の業績を再現する形のものが多いけど、生者がそのままで神になれるはずが無いので、憑かせるためにはそれなりの「舞台装置」が必要という事で一般的な考え方だと思う。
やはりユニークなのは後者で、「手段は時代によって変わって良い」し、それが「サングラス」であっても問題ない、とする心のあり方が柔軟で合理的なんだと。良い意味での「適当さ」というところもあるんだろうけど、「型」ではなく「本質」を守ろうとしている点で、より伝統に忠実とも言えるんだと。そういう事を友人は話してくれたわけです。


そんな事を思い出しながら東京の日射しの下で歩き回り、久しぶりに沖縄に行きたいなあと思った一日でした。