2つの手話

偶然、手話に革命!『驚きの手話「パ」「ポ」翻訳』 を手に取ってみる機会があって、「ああ、これが例の別の手話なのか」と思い出しました。(「日本手話」と言うんですね。正式名をやっと憶えました。)

事情をわかっていない者にとっては、紹介のページにある以下の文章だけでも驚かされます。

◎聴者が使っている手話は「日本語対応手話」で、ろう者の「日本手話」とは違うのです。
「日本語対応手話の手話通訳者ばかりになって久しく、ろう者はその通訳者の手話があまりよく理解できないのだが、『お上手でしたよ、お疲れ様でした』と社交辞令で済ませ、正直、『理解できなかった、通じなかった』などと口にする者はいないのです。」(本文18ページより)

このようなギャップは、当たり障りのない会話であれば、それほど問題になることも無いでしょうが、実際には冤罪を生むような事もあるようです。

累犯障害者

以前に読んだ(そして、どうにもならない無力感に襲われた)累犯障害者 (山本譲司)では、この2つの手話について作者が初めて知る場面があります。

彼らが言うには、ろうあ者が用いる手話は日本語とは別の言語であって、健常者が学習する手話と比べ、文法や表現方法に大きな違いがあるのだそうだ。
(中略)
使う相手によっては、全く理解できないこともあるらしい。

この話を「彼ら」から聞くのは、作者の獄中生活の中でであり、「彼ら」とは同じ服役中のろうあ者です。作者はこれを知って大変驚くのですが、読んでいる私も初めて知る話でした。手話での挨拶とか練習した事がありますが、あれは一体...と。

ですが衝撃的なのは、この後です。

−−けいさつの中 つうやくの人の手話 よくわからないことが多い ウソつうやくする。
(中略)
警察や検察の取り調べにおける手話通訳者の日本語訳には、いくつもの間違いがあったというのだ。時には供述した内容とは正反対の主旨が伝えられた、とも主張する。

これがもし自分だったら、と考えると、こんな恐ろしい話はないですね。同じ「日本人」どうしで、同じ「言葉」を使っていながら、「事実」が歪められてしまう。しかも、間違えている側は、そうという意識がないのにです。

この本では、ろうあ者以外についても色々なやりきれない事実が書かれていますが、一方で、(僅かずつですが)改革の動きについても書かれています。ただ、改善には時間がかかる(文庫版の出版はたった2年前)でしょう。今現在、身内にこの本で書かれているような障碍を持った子が産まれたらどうするのか?自分は何ができるのか?正直に言って良い考えが浮かびません。

2つの手話

素人考えでは、日本の中でわざわざ2つに分けなくても、さっさと1つにまとめれば良いではないか、と思ってしまうのですが、どうもそんな単純な話ではないようです。
こちらの記事にとてもわかりやすい解説があるのですが、もともと「(音声)日本語」をある程度習得してから手話を使う必要が出てきた人(中途失聴者など)にとっては「日本語対応手話」という「(音声)日本語」を置き換える事が比較的容易な手話の方がとっつきやすく、最初から「(音声)日本語」を知らなかった人にとっては「日本手話」という専用の言語の方がより迅速で深いコミュニケーションが可能、ということのようです。
このような機能的な理由以外にも、両手話間の断絶には歴史的な背景もあるようで、それは上記の本でもわかるように今でも続いているようです。。。

学校の課外学習で手話を学んだ娘は、やはり日本語対応手話を憶えたんでしょうかね。日本手話の存在は知っているのだろうか。明日、林間学校から帰ってくる娘と話してみたくなった夜でした。