それは誰のための仕事なの?

このニュース見て思い出した。

兵庫県議会:最後の速記者 20年以上、一心不乱に記録 毎日新聞 2011年7月28日 7時00分(最終更新 7月28日 8時46分)

 兵庫県議会が6月定例会から、質問や答弁の一言一言を手書きで記録する「速記」を廃止した。戦前から100年以上にわたり続けられてきたが、速記の技術を身につけている専門家の確保が難しくなってきたからだ。議会特有の文化が失われていくことに、最後の速記者として20年以上のキャリアを積んできた議会事務局議事課記録係主査、吉川勝之さん(43)は「寂しさもあるが、あっという間の二十数年だった」と振り返る。

私は高卒で働く事を考えていた(まあ結局は大学に行かせてもらったんだけど)から、何か手に職が必要だと思って、速記者も考えた事があったんだった。この人は私と同年代で、同じような事を考えたみたい。

 速記に関心を持ったのは高校生時代。テレビの国会中継に映し出された速記者の姿を見て「かっこいいと感じた」。高校卒業後、速記者を育てる「参議院速記者養成所」(東京)に迷わず入所した。符号の書き取りやテープ起こしなど、2年間みっちり鍛えられた後、速記者を募集していた県に89年、職員として採用された。

結構、実入りも多いと聞いていたんだけど、世の中の変化って凄いね。社団法人日本速記協会のページとか見ても予算が減ってるみたいだし、「参議院速記者養成所は、衆議院の養成所と同じく06年度に廃止」とかで、職業としての速記者は無くなっていくんでしょうね。(まあ、2006年まで養成所が有ったこと自体が驚きではあるんだけど)
当時は他にも英文タイプの仕事とか、色々と探したりしていたんだけど、当時と同じ価値を保ったものは殆ど無いんじゃないかと思う。
もちろん、地方公務員でも事務系とかは当時から価値もあんまり変わらないんだろう(実際、この吉川さんも作業自体は変わっても職を失うわけではない)けど、私は一種の技術職みたいなものを考えていたから、そのまま進んで民間に就職とかだったら今頃どうなっているのやら。

スキルの価値を考える

常に安泰の仕事とか無いし、生きる上で必須の衣食住関連の仕事だって必要なスキルは変化しているだろうから、価値のあるスキルというのが変化していくというのはむしろ自然なのかもね。結局は、やりたい事やれる事をその時の状況に合わせてやっていきながら成長していくしかない。
ただ、そうは言っても、積み上げてきたスキルや経験の価値が下がったり、ひっくり返されたりするのはキツイ事なので、将来的に上手く積み上げていけるような選択をしていく事が出来た方がよい。どうすんだろうね。

速記者のページとか見てると、今は、速記のスキルそのものではなく、記録系文書の作成能力をセールスポイントにしてやっているみたい。これは、速記というスキル自体は目的ではなく、手段に過ぎないという事です。だから今は、より優れた手段として「音声記録」や「御背認識による文字おこし」があり、それを使って本来の目的を達成するというわけです。
つまり、速記者という仕事の本質は「速く記す」事ではなく、「正確で漏れがない記録を残す」事にあるというわけですね。

考えるべきなのはその仕事の本来の目的であり価値なのでしょう。そのために必要なスキルというのはあくまで手段だし、現時点でしか有効じゃないかもしれない。その事に向き合って、自分のスキルを常に見直し修正していく事(それも小まめに)が大切になる。そのためには、スキル自体に固執せず、ダメだと思ったらさっさと捨てる勇気も必要でしょう。スキルと心中することはない。

仕事の価値を考える

ただねえ、これをもう一段進めた時に、「では仕事(目的)自体には価値があるのか」という事も問い直されるんですよね。これが本質で目的だ、とか思っていて、いろんな(時代に応じた)スキルで実現していたとしても、「でもその仕事自体に需要無いよ?」ということがあり得る。先ほどの例で言えば、「記録文書の作成自体は目的になるの?」という話。
これ考え出すと大変。そもそも、、、、という感じでループしたりする。なかなか答えが見つからない。
自分の場合は、「結局それは誰のためになっているの?」という問いかけは、結構使えます。これにちゃんと回答できない時、それは非常に危ない状態にあると思った方が良いんじゃないかなあ。何だかんだと仕事はじめて20年以上たつと、「業界」や「企業」や「職務」や「スキル」といったものに向き合うのではなく、「誰のため=顧客」に向き合う事を続ける事が唯一の解決策じゃないかと思ったりしてます。
なんか地味でありきたりな話なんだけどね。